オランダ勢力によって東南アジア・東アジアから締めだされたイングランドは、17世紀、マドラス(チェンナイ、1639年)、ボンベイ(ムンバイ、1661年)、カルカッタ(コルカタ、1690年)と盛んにインドへ進出した。インドにおける主力商品は綿布と茶だった。ルネサンス時代にヨーロッパにもたらされたインド綿布は爆発的な人気をよび、17世紀中葉以降のイギリス東インド会社はこの貿易によって莫大な利潤を得た。カリカット港から輸出された綿布は特に良質で、この積出港の名がなまってキャラコとよばれた。茶は、のちに豊かになったイングランド人の国民的な飲料となっていった。
アメリカ大陸へは、1607年にヴァージニア会社によってヴァージニア植民地が設立されたのが、記録上最も古い成功例である。入植した約100人の男たちは、先住民の攻撃から身を守るために高い柵で囲んだ三角形の町ジェームズタウンを建設した。しかし、最大の敵はむしろ病気と饑餓だった。このとき探検家ジョン・スミスが先住民の娘ポカホンタスに助けられた逸話は有名であるが、実際には諸説ある。ヴァージニア植民地議会が開設されたのが1619年であり、同年、タバコ栽培のために必要だとして、黒人奴隷の輸入を決めている。ヴァージニアは1624年には王領植民地となった。地域名は処女王エリザベスに、ジェームズタウンの名はジェームズ1世にちなむ。
ニューイングランドは、1616年にイングランドで入植者の募集がおこなわれたのが地域名の由来である。ジェームズ1世治下の1620年、ピルグリムファーザーズと呼ばれたイングランドのピューリタン(清教徒)が信仰の自由を求めてメイフラワー号に乗ってアメリカに渡り、プリマスの港に到着した。その後、1629年マサチューセッツ湾植民地、ニューハンプシャー植民地、1636年ロードアイランド植民地など各地に自治植民地がつくられた。1637年には北のヌーベルフランス、南のニューネーデルラントに対抗するため「ニューイングランド連合」が結成されている。
入植者たちは、先住民に対しては、キリスト教の布教やヨーロッパで作られた製品、特に銃など金属製品の譲渡で大きな影響を与えた。銃は狩猟用で与えたつもりだったが、その数が増えれば特定の種族の力が上がり、他の種族を追い払うか絶滅させるところまで成長した。イロコイ連邦がその例であるが、イギリスやフランスがその力を利用して植民地の主導権争いを続けたことも事実であり、それはのちに19世紀の終わりまで続く長いインディアンとの闘争の始まりでもあった。
植民地への入植初期に、特に海岸地方では見境もなく木を切り倒して暖房や家屋の建築に利用した。また、良い材木はヨーロッパ向けに輸出した。このために瞬く間に樹木を消失させ荒涼とした風景を現出させた地域があった。世界的に見ても森林破壊の初期の例である。これは後にペンシルバニアで製鉄業が起こってきたときに、工業燃料として森林を伐採することで繰り返されたが、石炭の利用の開始により何とかそれ以上の進展を食い止められた。
なお、1664年の第2次英蘭戦争の結果英領となったニューネーデルラントでは、中心都市ニューアムステルダムの名がニューヨークと改められた。これは、国王チャールズ2世が弟のヨーク公(のちのジェームズ2世)に与えた土地であることに由来している。
30年余におよぶユグノー戦争(1562年-1598年)はフランス国内を荒廃させたが、16世紀末にアンリ4世が即位してブルボン朝がはじまり、ナントの勅令を発布して国内の宗教対立に終止符を打った。1608年にはケベック市が建設されてカナダ植民の拠点となった。次のルイ13世は三十年戦争に介入、フランスは旧教国でありながら新教側に立って参戦した。この戦争によって、ブルボン家にとっては宿敵だったオーストリア・スペイン両ハプスブルク家に対して優位性を獲得した。なお、1642年にはカナダにモントリオール市が建設されている。
フランス最後の貴族の反乱となったフロンドの乱(1648年-1653年)が平定されたのちの1661年には太陽王ルイ14世(位1643年-1715年)の親政が始まり、同年ヴェルサイユ宮殿の造営が開始され、貴族をここに居住させている。フランスの絶対王政は、貴族を王の経済的保護の下に置くことで政治的権力を奪い、中央集権体制の実現を図っていった。そして、豪奢な宮廷生活、官僚制の整備、ヨーロッパ最大の常備軍の維持のため、ジャン=バティスト・コルベールらによる重商主義政策が採用された。
「朕は国家なり」の言葉で知られるルイ14世は「領土の拡大は最も気持ちの良い仕事である」と豪語し、自然国境説にもとづいてたび重なる侵略戦争を行った。ヨーロッパにおける南ネーデルラント継承戦争(1667年-1668年)、オランダ戦争(オランダ侵略戦争、1672年-1678年)そしてファルツ継承戦争(1688年-1697年)である。
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一方東洋進出においても、1604年に設立されたがすぐに衰退したフランス東インド会社をコルベールが1664年に再組織して本格化し、インドではシャンデルナゴル(1673年)やポンディシェリ(1674年)を根拠地としてイギリスに対抗しようとした。また、アメリカでは、1659年に西インド諸島のサン=ドマング(ハイチ)に進出し、サトウキビのプランテーション経営を行った。1682年にはミシシッピ川流域一帯のフランス領ルイジアナへの植民が始まった。「ルイジアナ」の地名は、太陽王の名にちなんでフランス人ラ・サールによって命名されたものである。フランスは、カナダとルイジアナではおもに毛皮貿易に従事し、カトリック布教も行った。フランス東インド会社は1742年以降はデュプレクス総督の下でインドの支配権をめぐりイギリスと争った。
イングランドでは、王政復古後もチャールズ2世がカトリック官僚を採用するなど旧教の復活を企図し、極端な反動政治を行ったため、議会は審査律(1673年)や人身保護律(1679年)を発してそれを牽制した。さらに次のジェームズ2世も同様の専制政治を行ったため、ついに議会は1688年王を廃位し、プロテスタント信者で王家の血筋にあたるオランダ総督ウィレム(ウィリアム3世)とメアリ(メアリ2世)の夫婦をむかえて「権利の宣言」を認めさせた。この政変は、流血の惨事なくおこなわれたことから名誉革命と呼ばれている。ウィリアムとメアリは翌年、権利の宣言を「権利章典」として発布し、イングランドはこれを機に立憲君主国へと変貌を遂げた。イングランドで発達した議会制度と法治主義は、後世、諸国の模範とするところとなった。
1688年、ルイ14世がドイツのファルツ選帝侯の領土に対し、王弟オルレアン公の妃の継承権を主張して戦争をおこした(ファルツ継承戦争)のに対しイングランド、スペイン、オランダ、ドイツの皇帝・諸侯はアウグスブルク同盟を結んでフランスのファルツ継承を阻止した。北米では英王ウィリアム3世にちなんでウィリアム王戦争とも呼ばれるこの戦いは、「第2次百年戦争」と呼ばれる長い英仏抗争のさきがけとなった。